山本「今のように、南蛮焼〆を始めたのもそのあたりですか?」

森岡「南蛮は中里隆さんの種子島の窯を見たときだから、1974年、26歳のときかな。あちこち窯場を訪ねる中で、知人のツテもあって中里さんのところにも立ち寄って、そこで南蛮のうつわを見ておもしろい焼物があるんだなぁと思ったのが最初だから。」

山本「中里さんが小山富士男さんの勧めに乗って種子島で焼〆の作品を作っていたのは、確か1971年~74年の3年間でしたよね。」

森岡「そうそう、そんなに長くは種子島にいなかった。種子島の窯は今でももちろん使っておられるけれどね。」

山本「それからすぐに南蛮のうつわに取りかかったんですか?」

森岡「いや、一回北南米で土器について学んだり、沖縄や東南アジアに窯場を見に行ったりしながら少しずつという感じです。ただ、81年に南青山のグリーンギャラリーという画廊で初めて個展をしたときには、もう南蛮が中心でした。その画廊はもうないけれど、いい画廊でね。現在大家と言われている人は大抵そこで個展をしたことがあるんじゃないかな。僕も初個展から16年間、隔年で個展をさせてもらって、育ててもらったという感じがありますね。」

山本「グリーンギャラリーでの初個展までに、海外もあちこち行かれてたんですね。何か影響は受けましたか?」

森岡「国内では随分機械で大量生産という陶器が増えてきていたけれど、当時のアジアではまだ手でちゃんと作っていで、しかも1日500とか600とか数を作っていて、それに強い感銘は受けましたね。ただ、その頃すでに土器っていうのはいろんなところでどんどんなくなっていて、これを記録しておかないと土器という物自体がなくなってしまうんじゃないかと危惧する気持ちもあって、世界土器学会みたいなものに入って土器の記録を残すような活動も作陶と平行して行っていました。海のシルクロードとかを提唱した三杉隆敏さんとか、アフリカのの土器を研究していた森淳さんとか、そういう方々と知り合いになって、世界土器資料館を作ろうという動きもあったんですよ。バブル崩壊とともにだめになってしまいましたけれど。」

山本「現在でも沖縄や海外の窯場にはよく足を運んでおられますよね。やはり国内とはまた違った刺激を受けられるのでしょうか?」

森岡「焼物は日本よりも外国がおもしろいんじゃないの?という思いはありますね。仕事ぶりが日本とはぜんぜん違って、1客何十万という作品を作ろうというのがないでしょう。ただ、食べていくために毎日手を動かす。物作りの姿勢として、そのほうが正しい在り方なんじゃないかという思いが強くあります。そういう意味ではモノももちろんですが、作陶に対する姿勢や精神性に刺激を受けているのかもしれません」








 

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